スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
ダライ・ラマ回想(5)
Jun. 25, 2007

Dalai-Lama(closeup3).jpg

(『ダライ・ラマ 回想(4)』より続き)

2003年9月、ダライ・ラマに対する「不信・失望感」が更に強まる出来事が起こった。

ブッシュ大統領を訪問の際、こともあろうに、「旧友に御会いしたようだ。彼はチベット人へ心から関心と同情を寄せてくれている」とダライ・ラマは記者団に話したのだ。半年前、ブッシュは国連の勧告を無視し「イラク戦争」へと突き進んだ。9月の段階で、あるイラクの政治グループの調査によれば、既に民間人の犠牲者は3万人以上。市街地を舞台に戦闘が激しさを増す中、更なる市民の犠牲が懸念されていた。

そんな状況の中、「非暴力」を標榜する者が、暴力の権化の様な男に会い「旧友」などと言うことがあり得るだろうか。ダライ・ラマの影響力と責任を考えれば、外交上の単なるリップサービスでは済まされない。この“カウボーイ”男(=ブッシュ)の指示による戦闘で一般の罪なき人々が殺されているのだ。何たる体たらく。完全に整合性が破綻している。

多くのチベット難民を受け入れ、公には、アメリカはチベット難民の最大の支援国で通っている。しかし、アメリカは中国と経済協力を押し進めていることからも明白な様に、お得意のダブルスタンダードがことの真相。チベットの歴史を振り返れば、それは大国に翻弄され続けた歴史であることが分かる。隣国モンゴル、中国、列強イギリス、ロシアなど。現在、同じことが繰り返されているように感じるのは私だけではあるまい。

「非暴力&対話」は、ダライ・ラマのみならずチベットの大義のために闘うチベット難民全ての絶対に譲れない生命線でありエッセンスなのではないのか。それを放棄する様な言動は自らを否定することであり、ひいては、チベット難民に対する不信感を生み世界のサポートを失うことになるのではないのか。

ダライ・ラマを中心とするチベット難民が亡命政府を樹立してから40年以上になるが、未だにどの国も正式にその政府をチベットの代表であると認めていない。「チベット問題」の解決の糸口さえ見えない。一方、「東ティモール」は遂に2002年に独立を果たした。

この現状を生んでいる要因の一つが、88年の独立放棄政策への転換、そして今回の様な軽率な言動などに見られる「整合性の欠如」にあると思えてならない。(99年にインタビューしたチベットを代表する作家・ジャムヤン・ノルブもダライ・ラマの「政策の不整合」を厳しく問い質している。)

ダライ・ラマはガンディーを尊敬している。ご承知の通り、ガンディーは「非暴力」によりインドの独立を果たした。しかし、ガンディーの「非暴力」とは「不服従」とのセットであった。ここが、ダライ・ラマの「非暴力」との大きな違いだと私は感じている。ダライ・ラマは「権力」に服従してしまっている。これでは、「非暴力」は効力を発揮しない”絵に描いた餅”に過ぎない。ガンディーがインドの大衆のみならず世界の人々の共感を得た最大の要因は、「非暴力」思想が身を挺した「不服従」の行動にしっかりと支えられていたからだ。

私は完全に失望した。信じていた者に裏切られた様に狼狽えた。他方、“特権階級”の流れをくむ亡命政府の役人たちや”チベットサポーター”と呼ばれる人々は、決して、ダライ・ラマを批判したりはしない。相変わらず、彼らにとって、ダライ・ラマは“大看板(”大広告塔“)”であり絶対的な「法王様」なのだ。

この光景は何かに少し似ていないか。そうだ、『裸の王様』(アンデルセン童話)だ。本当に、真に、ダライ・ラマを敬いサポートしたいのであれば、決して、彼を「裸の王様」にしてはならない。

「王様は裸だ!」と勇気を持って言わねばならないのだ。

(『ダライ・ラマ回想(6)』へ続く)

スポンサーサイト

テーマ:チベット - ジャンル:海外情報

【2007/06/25 00:26】 | ダライ・ラマ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ダライ・ラマ回想(4)
Jun. 24, 2007

Dalai-Lama2007.jpg

(『ダライ・ラマ 回想(3)』より続き)

だが、当然のことながら、人間の意識・体質はそう簡単には変わらないものだ。

ダライ・ラマが倒れたことで、難民コミュニティーにはかなりの動揺が広がっていた。チベットから逃れてきた人々(特に中年以上)にとって、宗教(チベット仏教)は生活の中心であり、ダライ・ラマはやはり絶対的唯一無二の存在なのだ。一方、インドなど他国で生まれ西洋的な教育を受けて育った若い世代(少なくとも友人達)は比較的冷静に今回の一件を受け止めていた。彼らはチベット仏教やダライ・ラマという存在を相対化し客観視できる。

「チベット仏教は素晴らしいものだが、仏教本来の教えに反する伝統やシステムもある」と難民コミュニティーで医師として働く若者は以前そう語っていた。「宗教的な盲目さは我々チベット人の特徴であり弱さでもある」と話す若者もいた。

ダライ・ラマも、実は、このことを良くお分かりになっており、私見としながらも「ダライ・ラマ制度は無くなっても構わない」「将来のチベット(人)社会は昔とは異なり、政教分離した(イギリスの様な)議会制民主主義が望ましい」としている。近年、チベット亡命政府の首相を選出する選挙が難民コミュニティー内で行われたが、結局、選ばれたのは著名な高僧(サンドン・リンポチェ)だった。ダライ・ラマの理念や真意が難民たちの間で理解され浸透していくのは、次世代がコミュニティーの中心になってからかもしれない。

一方、“チベットサポーター”も相変わらずだ。ダライ・ラマの絶対視は自ずと無批判なチベット社会の理想化に繋がる。つまり、チベットは古来シャングリラ(理想郷)で、それを極悪非道な中国(人)(漢族)が破壊したという単純で安直な図式だ。

残念ながら、ことはそんな単純ではない。チベットが、サポーターたちが描く様な“理想郷”ではなかったことは様々な文献・手記より明白。中世的な大僧院の間の権力闘争、特権階級の贅沢な暮らしと庶民の極貧状態、近代化を進めようとする若者達の政府による追放など、鎖国時代のチベットに潜入した日本人の一人である木村肥佐生氏も『チベット潜行十年』の中で述べているとおり。実際、我々の社会と何ら変わりのない普通の人間の社会なのだ。その(中世的な)“因習”は現在もチベット難民社会に残存している。

チベット及びチベット難民を本気でサポートしようとする者は、中国政府(中国人ではない。政府の方針・政策と一般の中国人とを一緒くたにして批判・非難する“サポーター”がいるが、非論理的且つ非理性的で全く馬鹿げている)の悪行を非難するだけではなく、チベット人社会の“闇”の部分をも凝視しなければならない。ステレオタイプの様な安易な理想化は、結局、チベット人のためにならないことを今一度良く考えてみようー「良薬口に苦し」だ。

しかし、だからといって、諸外国及び国連より独立を認められていたチベットに対する中国政府の侵攻・統治へ理解を示し批判を緩めることなどいささかも出来はしない。

チベット社会の改善・進歩は、あくまで、その住民たるチベット人に委ねられねばならない。

中国政府統治後のチベッの惨状については、親中派であり全国人民代表大会常務副委員長を勤めたパンチェン・ラマ10世(ダライ・ラマに次ぐチベット仏教ナンバー2)でさえ、『7万語の請願書』の中で「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を払った」と政府に訴えねばならなかったほどだ。ちなみに、胡耀邦総書記(当時)もその惨状に驚愕し、責任者達を厳しく処罰しチベット政策の大幅な見直しをさせた。(中国のチベット政策については拙者のHP等を御参考下さい)

**********************

話を“チベットサポーター”に戻そう。

ダライ・ラマを絶対視しチベットを理想化する姿勢の中には、中国や中国人に対する激烈な批判はあっても、「身内」(つまりチベット人側)が抱える「問題」への指摘は決して無い。

2001年9月11日、アメリカで「同時多発テロ」が発生。ブッシュ大統領はここぞとばかりに武力による”対テロ戦争”をぶち上げ、アフガニスタン戦争へと突入する。ダライ・ラマは訪日時(2000年)の講演で「20世紀は”流血の世紀”だったが、21世紀は”対話の世紀”になるでしょう」と楽観視していたが、最初からその予想は脆くも覆された。アメリカと中東を中心に「暴力の連鎖」が世界に拡大することは明らかだった。「非暴力と対話」の大切さを標榜しているダライ・ラマの正に真価が問われる局面だと思った。

私は心密かに期待した。「きっと、ハンガーストライキ、或は、長期の瞑想により、世界のこの危機的状況に警鐘をならしてくれるに違いない」

しかし、ダライ・ラマがしたのは、「暴力に訴えないで、対話により解決して欲しい」というメッセージのみだった。拍子抜けだ。「暴力はまずい。話し合わなければ」などとは、その辺のおばさん(失礼!)でも言える。ダライ・ラマにしか出来ないインパクトのある行動を今こそとるべき時ではないのか。私は、その憤りを、チベット亡命政府東京事務所に勤めていた親友にぶつけた。「田中さんの言うことは十分に分かる。しかし、法王様(ダライ・ラマ)にもお考えが・・・」と、いかにも歯切れが悪い。

チベット人やサポーターが言う様に、ダライ・ラマは"活仏"で、我々凡人どもには計り知れないのかもしれない。だが、我々が肉体という厄介なものをまとっている以上、この塵芥にまみれた「俗界」から逃れることは出来ない。それは、ダライ・ラマとて同じこと。

この「俗界」を少しでもまともな状態にするために、「非暴力&対話」をダライ・ラマは唱えているのではないのか。だとしたら、まさしく身(肉体)を挺して、俗人である誰もが真に共感する形で訴えるべきではないのか。ダライ・ラマがハンガーストライキをすれば、世界中の多くの者が「非暴力」を守るために一斉に立ち上がるだろう。

単なる「言葉」では人は動かない。人心を奮わせ人々を行動へと導くのは「行動」だ。「特別な人」の特別な行動が今こそ必要とされていた。

「ただ、チベット人達のリーダーである彼の責務と年齢(当時66歳)とを熟慮すれば、身体的な無理は出来ないのかもしれないな」とダライ・ラマへの失望と不信感とを収めようとしてはみたが、完全には払拭されなかった。

(『ダライ・ラマ回想(5)』へ続く)



テーマ:チベット - ジャンル:海外情報

【2007/06/24 02:10】 | ダライ・ラマ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ダライ・ラマ回想(3)
Jun. 16, 2007

dalai-lama-ikari.jpg

(『ダライ・ラマ回想(2)』より続き)

翌2000年、ダライ・ラマは初めて教育機関(京都精華大学)の要請を受けての訪日を果たす(それまでの招聘元は宗教団体)。いつもと同様、ダライ・ラマの外国訪問を阻止しようと中国政府は躍起になり、招聘元に圧力をかけてきた。しかし、若い大学スタッフが果敢にこれを凌ぎことなきを得る。「環境と人間」に関する講義、シンポジウム、心身障患者との交流等、約2週間の滞日は中身の濃い勢力的なものだった。(この訪日の映像記録を後に制作することになった:『ダライ・ラマー21世紀への提言』)。

東京の宿泊先のホテルで再会を果たす。驚いたことに、昨年のインタビューのことを事細かに覚えていて下さった。彼の秘書官によれば、1959年、インドに亡命した際にインタビューを受けたインド人ジャーナリストのことを、数十年後に再会した際もその時の状況などもふまえ詳細に覚えていたという。ダライ・ラマの記憶の良さは“伝説”らしい。

******************

二年後、2002年、私はブッダガヤ(インド)にいた。チベット仏教の最も重要な儀式の一つ・「カーラチャクラ・イニシエーション」の取材だ。釈尊(ブッダ)成道の地でダライ・ラマによりその儀式が17年ぶりに執り行われると聞き、準備もそこそこに飛んできた。小さなブッダガヤの町はインド、ネパールのみならず世界各地からのチベット難民、チベット系民族、チベット仏教信者、欧米のバックパッカーなどでごった返していた。何と、中国国内のチベットからも大勢来ていた。ものすごい土埃で前が霞んで見えない。「100万人ぐらい居るんじゃないの!」ダラムサーラから来ていた友人は口を抑えて呆れている。

儀式初日。四方を壁で仕切られた儀式会場には、集まった人々の熱気が砂塵と共に激しく舞い上がっている。視線は壇上の“玉座”に注がれて微動だにしない。無論、そこに座るのはダライ・ラマ。間もなく、チベットのトランペットのけたたましい音と共にダライ・ラマが登場した。「?」、いつもと様子が少し違う。顔が青白い。いつもの快活さが無い。どうしたのか?体調の悪さは説法を初めて直ぐに明らかになった。声の張りが全くないのだ。深刻なのだろうか...

説法は早々に切り上げられ、別の僧侶が引き継いだ。

結局、ダライ・ラマはムンバイの病院に搬送されることになった。体調不良をおして、儀式に先立って史跡巡礼を強行したことが悪かったらしい。ダライ・ラマも既に66歳(当時)。過密スケジュールが過ぎた。

”支柱”を失って、チベット亡命政府の役人達は明らかに狼狽えていた。ダライ・ラマが重要な儀式をキャンセルするなど前代未聞の事態。儀式のためにダライ・ラマに同行していた知人の若い僧侶もさぞかし慌てているだろう。

「大変なことになったな」

しかし、彼は私の声を制止する様にはっきりと言った。

「ダライ・ラマが不在でも全く問題はない」

嬉しかった。本当に嬉しかった。その言葉こそ、正に聞きたかった言葉だった。チベット難民に関するドキュメンタリー第一弾として製作した『チベット難民ー世代を超えた闘い』のテーマ、メッセージは、ダライ・ラマという存在に頼らずに奮起して自ら立ち上がる一般の難民たち、特に若い世代のアクション、即ち、イニシアチブである。それこそが、彼らの「大義(=チベットの真の解放)」の実現に繋がると信じるが故だ。

若き僧侶たちは、ダライ・ラマの代わりの高僧と共に、無事、儀式を執り行った。

しかし、ダライ・ラマが不在になったことで、役人達は大いに動揺し、“ダライ・ラマフリーク”である大多数の外国人達はそそくさと会場を去って行った。

その光景に、「チベット難民」や「チベット問題」を取り巻く状況が露呈していた。

この「事件」が、ダライ・ラマを絶対視し極度に依存するチベット難民やいわゆる”チベット サポーター(支援者)”の意識・体質を変える切っ掛けとなるのだろうか。

(『ダライ・ラマ回想 (4)』へ続く)

テーマ:チベット - ジャンル:海外情報

【2007/06/16 15:12】 | ダライ・ラマ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ダライ・ラマ 回想(2)
Jun. 4, 2007



(『ダライ・ラマ 回想(1)』より続き)

そして、12年の時を越え単独インタビューの実現。目の前のダライ・ラマは気さくなおじいさんという感じだ。うっすらと毛の生えたきれいな形の(うちの祖父を少し思い出させた)坊主頭がそう思わせるのか。無論、バリトン調のハキハキした声、時折見せる眼光の鋭さなどに“オーラ”は現れていた。

私は率直に質問をぶつけた。

「あなたは1988年にチベットの独立を放棄し、それ以来、チベットの完全自治を中国政府に求めている。しかし、中国政府は無理難題な『前提条件』を突きつけ事実上対話の再開さえ拒否。しかも、チベット難民の殆どは、たとえ表には出さなくても、チベットの独立を望んでいる。あなたが独立要求を放棄したことを厳しく批判するチベット人知識者にも会った。難民達はあなたの政策の『意図』を本当に理解し支持しているのですか?」

「ははは」と少し笑いながら、ダライ・ラマはこう続けたー

「チベット難民たちは政策を支持してくれていると思いますよ。もちろん、私は一人一人に『私の政策を支持していますか?』と聞いて回った訳ではないですがね。」

質問を笑いながらはぐらかされたことに、正直、ムッとしてしまった。

私はアメリカ留学時(3年間)、「チベット問題」に関する相当のリサーチをした。しかも、単独で3ヶ月間、難民コミュニティーに滞在しながら様々な難民(老若男女、政府関係者、聖職者、etc. )へのインタビューを重ねていた。殆ど何の実質的な勉強さえもしないでインタビューに臨む大多数の連中とは訳が違うーそれなりの自負があった。「笑いながら答えるとは何事か!」不敬にも心の中でそう叫びー

「私が聞いていることはそんなことではない。チベット難民の間で『チベット問題』に対する本当の気持ちが一致してない状況の中で、どうしてチベットの“大義”のための闘いが実を結ぶというのか。いかにして、問題解決への光明が見出せるのか」と早口の英語で捲し立ててしまった。

すると、ダライ・ラマのそれまでのどことなく緩んだ穏やかな表情が一変し、厳しく真剣な顔になった。

「ビデオカメラを一度止めて下さい。先ず、オフレコでお話しましょう」

ダライ・ラマは具体的な個人名・団体名を挙げた後、

「インド及び世界各地の様々なチベット難民たちが、チベット独立を放棄した私の政策を厳しく批判していることを知っています。特に、若い世代。たが、中国政府が交渉を頑に拒み何十年も状況が変わらない中、一体、どうしろというのです。批判するのは構わない。しかし、ならば、彼らには具体的な“青写真”を提示してもらいたいのです」 

そう熱く語った64歳(当時)のダライ・ラマの目頭はうっすらと濡れていた。

彼の孤独、焦躁、悲しみが少しだけ分かった気がした。

10分の約束だったインタビューは結局1時間に及んだ。外に出ると、若い僧侶達が儀式の準備で忙しく走り回っている。その日は奇しくも「ブッダの生誕祭」の日だったのだ。私はダライ・ラマより頂いた絹のスカーフに触れながら、「独自の視点で『チベット問題』を伝えていかなければならない」と改めて感じていた。

(『ダライ・ラマ 回想(3)』へ続く)



テーマ:チベット - ジャンル:海外情報

【2007/06/04 01:03】 | ダライ・ラマ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。